正岡容とただ新粉

芸を愛した生粋の東京人
正岡容(まさおかいるる・1904~1958)は、寄席や演芸をこよなく愛し、芸人の人柄を捉えた巧みな評論や小説を残したことで知られます。生まれ育った東京への思い入れが深く、明治~昭和の街の風景や菓子のことを随筆に残しました。
子どもの楽しみ、ただ新粉(しんこ)
着色した新粉(米の粉)生地をさまざまなかたちに作る新粉細工は、江戸時代から見られ、数十年前までは祭礼の縁日などにも並んでいました。客の注文に応じて、動物や鳥を作り上げる職人技は、子どもでなくても心踊るものだったことでしょう。
こうした細工物だけでなく、かつては、子供向けに、さまざまな色の新粉生地をパレットのように片木板(へぎいた)に載せた「ただ新粉」が一緒に売られていたそうです。子どもたちは、板に添えられた鬢付油(びんつけあぶら)を手になじませながら、粘土のようにして遊んだといいます。 昭和23年(1948)に正岡が発表した『東京恋慕帖』には、この「ただ新粉」についての一文があります。
正岡が幼い日に親しんだそれは、「正面へドデンと白い山脈のやうなものが据えられ、その前へ赤、青、緑、黄、黒、時として金、銀までの小さな色新粉の舎人(とねり)のごとくとあしらはれてゐるもの」とのこと。金銀まであったとは驚きます。
ところが、戦時中の昭和17年、義妹が見つけてきたのは、味気ない白一色の塊でした。正岡は、自著の表紙絵に「ありし日の下町生活の象徴」として、木村荘八(きむらしょうはち)に、かつての色とりどりの「ただ新粉」の画を描いてもらいたいと思っているが、「若い読者たちからは此は一体何だ色見本かとでも云ふことになりさうである」と、もはや消えゆく存在であることを嘆息しました。
この一文を読んだ、友人で浅草生まれの俳人の高篤三(こうとくぞう)が、「ただ新粉」を取り上げたことを喜び、なつかしむ葉書をすぐにくれたことを、正岡は後に回想しています。戦争を境にいつしか姿を消してしまった「ただ新粉」は、正岡たちにとって、古き良き時代を偲ぶよすがだったのではないでしょうか。
※原文では、新粉の「新」の字は「米」+「参」の旧字を使用している。
※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
参考文献
『東京恋慕帖』筑摩書店 2004年
仲田定之助『明治商売往来』筑摩書店 2003年
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