仮名垣魯文と船橋屋

2013.07.17
幕末の雷門船橋屋の引札(17.3×49.4cm) 吉田コレクション

幕末~明治の戯作者

仮名垣魯文(かながきろぶん・1829~1894)は幕末から明治時代にかけての戯作者で、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に想を得た『西洋道中膝栗毛』などで人気を集めました。後に『仮名読新聞』『いろは新聞』などを主宰し、新聞記者としても活躍しています。
当時の戯作者は小遣い稼ぎの文章を書くことが多く、山東京伝、式亭三馬などが書いた引札(ひきふだ・現在でいう広告チラシの類)が現存します。シャレをきかせた軽妙な口上は読み手を引き付け、おおいに商売に貢献したことでしょう。魯文も若い頃から多くの引札を書き、その数は五千を超えるともいわれます。

雷門の船橋屋との交流

魯文に引札を依頼した店の一つに、浅草雷門内に店を構えた船橋屋(以下「雷門」)がありました。同店は江戸深川に店を構えた名店、船橋屋織江(以下「深川」)から文化年間(1804~18)の終わり頃に暖簾分けをされたのですが、次々に支店を構え、やがて本店を名乗るようになりました。人気の戯作者であった魯文に文章を依頼することは、雷門にとって大きな宣伝戦略の一つであったと思われます。冒頭の写真は魯文の書いた引札のうちの一枚で、菓子の売り出し案内です。店の来歴や日ごろの客の贔屓への礼などを述べたあと、新しい菓子を「吟味の上に工夫をこらし」作るので、「御賑々敷(にぎにぎしく)ご雷駕(らいが)ありて多少にかぎらず御求(おもとめ)を主人(あるじ)に代りて願ふ」と結んでいます。
式亭三馬をはじめ、雷門と交流のあった文人はほかにもいましたが、魯文は特に関わりが深かったようで、出店の引札や、双六などの景品・錦絵などにも文を寄せています。また、明治時代になって魯文が発行した『魯文珍報』などの雑誌の販売所として同店の名前が見え、両者が長く親しくしていたことがしのばれます。
なお、鈴木越後をはじめ、幕府の菓子御用を勤めたような名店の引札は、現在ほとんど目にすることができません。これは固定の得意先を有していたため、宣伝の必要がなかったせいかもしれません。引札の多くは、新しい店が販路を広げるために使われたのでしょう。

※ 深川の船橋屋織江主人は、江戸時代に刊行された菓子製法書の白眉とも呼ばれる『菓子話船橋』(1841)を著したことで知られる。

※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

船橋屋については、以下でも取り上げています。詳しく知りたい方は、ぜひご覧ください。
機関誌『和菓子』20号 船橋屋餅菓子手製集草稿(虎屋文庫)
機関誌『和菓子』22号 二つの「船橋屋織江」(今村規子)
機関誌『和菓子』29号 戯作者と菓子屋の広告―浅草雷神門内の船橋屋織江を事例として―(金子千種)
機関誌『和菓子』 33号 「船橋御菓子双六」(森田 環)

機関誌『和菓子』についてはこちら

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